最小幸福単位、最大不幸単位

最小幸福単位 と 最大不幸単位 について書かれている本を
必死に探している夢を見た。
幸福について感知できる最小の規模は小さく、
不幸について感知できる最大の規模は大きくできたら
生きるのはもっとずいぶん楽になるかもしれない。
でも、ぼくの感じている最小不幸単位はそれとも少し違う。
僕が世界に対して、それをはかるものさしを持っているとする。
でも、その目盛りの大きさは日によって荒いときも細かいときもある。
そして、目盛りが大きいときには大きい物事が測れる・・・
とかではなく、ただ目盛りが大きいときには小さな物事が測れない、
それが問題だ。
たとえ目盛りが小さくても、大きな物事は測れるんだから。

人が他人に対して感じることは、自分に対して思っていることの
裏返しでしかない。
たとえば、疑り深い人は、他人を裏切ることが平気な自分自身を
疑っている。

僕は子供のころ、どんな事情を知っていても知らないふりをして、
笑っていなければならない家庭環境に育った。
そしてそのことは、僕に、人の表情には必ず裏があるという
疑いをもたらした。
ちょっとした悪口の裏には激しい憎悪があると思うようになった。
だから、生きることはもっと複雑に、難しいものになった。
大人になって、人が悪口を言うときには必ず自分の
弱いプライドを守ろうとしているということが分かったけれど、
それらをすべて自分に向けられた憎悪だと思う癖は治らなかった。
僕は「最大不幸単位」がかなり小さく作られてしまったのだ。

でも、創作の世界では違う。
創作の世界で重宝されるのは微妙で繊細なものさしの
形跡を含む作品だ。
見つけやすい単純な事実ではなくて、細かいものさしで
一日を生きた証拠として生み出された表現が歓迎される。
なぜなら、そういった作品は、受け手の心のものさしに
新たな目盛りを加えて、世界に対してより細やかな認識を
与えるという変化をもたらす。
そこにはダイナミックな衝動にまかせたな作品とは
ひと味違う魅力がある。

でも、作り手は、細かなものさしを持った作り手は苦しみ続ける。
目盛りが小さくなればなるほど、小さな不幸に気付きやすくなってしまうからだ。
現実世界の幸福と創作上の充実が両立しにくいのはこの辺の理由があるからだと思う。
それらをひっくるめた上で、鈍感になることと敏感になることを天秤にかけて、
どちらにしろ鈍感になることは選べなかった人が仕方なくなる職業、
それがあらゆる種類の芸術家だと感じる。