「悩んでいる時間があったら歩を進めろ」という的外れなアドバイス

どの道を行くか悩んでいる人に向かって、自分の進むべき道すら把握していない人が
「悩むな、悩んでいる時間だけ無駄だ、そのぶん前へ進め」とアドバイスする。
まるで、悩んで無駄にしたわずかな時間でどこにも辿り着けなくなるような口ぶりで。
けれど、目的地を知らない人がどれだけ歩を進めたって、それが前進になっているのか
逆走しているのかも分からない。
だから、自分の目的地がどこであるのか考えているうちは、たとえ実際に足が動いて
いなくても、目的地に辿り着くために前進していると言える。
だけれど、目的地について考えたことのない人たちにはそれが理解できない。
彼らは、全ての人間には自力で行かなければならない目的地があって、それが人によって
ばらばらだということを知らない。
だから、人に言われた道を、人に教えられた道徳で、人に指示されたとおりに進む。
それが自分の進むべき道であるかどうかなど考えもしない。
彼らは、自分の足が動いている事実に満足しているので、進んでいる道が
正しいか間違っているかなど疑わない。
だから、歩を止めている人を見ると疑問に思い、口を出さずにはいられないのだ。


人の生きる道はヒントに満ちている。
その人の激変させるような啓示はいつだってそのへんに転がっている。
ただ、そのヒントは、私たちが他人に言われたとおりでなく、自力でものを考え、
心に思考を蓄積し、それが一定水準に達したときにやっと理解できるようになっている。
だから、何も考えずに歩き続けたって、ヒントはただの石ころであり続けるのだ。


自分の進むべき道を考えずに、ただ人に教えられた成功―社会的地位、富、名誉、
動物的な欲望など―に向けて前進し、人に教えられた道徳を守り、人に敷かれた
レールからはみ出さないように生きた人は死ぬ前に必ず同じことを後悔する。
つまり、そういう生き方をする人は自分が永遠に生きると思っていて、人の意見に
反駁することが自分にとって永遠の呪いになると考え、それゆえ推奨された価値観や
思想とそのルールに従って生きてきたので、ある日、もうすぐ死ぬことを言い渡されて、
自分の命が限りあるものを気付いた瞬間に、そういった呪いに対する煩悶や心労が
全く無意味だったと身をもって知らされるのだ。
そして、そうなった時に、自分の進んでいた方向がまったく目的地と逆だったと
気付いたとしても、もう取り返しがつかない。



だから僕は、もし誰かが悩んでいるときに「悩んでいる間に前進しろ」
と言われたら、その人に代わってこう反論したい。
あなたに前進しているように見えないのは、あなたの向いている方向が
前じゃないからではないですか?