嫌いな理由を論理化するということ

私は何かを嫌いな理由を論理化するということを喜ばしく思
っていません。人が何かを嫌うのには理由があるし、それを
説明するのに論理的に矛盾せずに欠点を突くことはいつでも
容易だと考えています。
しかし、誰かを嫌いな理由が論理的であることは全てにおいて
フェアであるとは言えません。「人は普通好きなもののあら探し
をしないから」です。



何かを嫌いな人がよくその理由を論理化する理由は、それが
嫌いであるという「主観」を「これこれこういう理由だから
こいつは嫌われるべきである」という「客観」に置き換える
ためです。「主観」というアンフェアな意見に客観性を持た
せて、フェアな観点からもそれは嫌われて当然なものであると
証明することで、その嫌いな何かに対する否定に説得力を持た
せることができますし、自分が嫉妬だけを燃料に対象をこき下
ろしているという他人や自分自身から湧き出る疑念を取り払う
ことができます。
そして実際に、ほとんどの場合、最初の動機はどうあれ「嫌い」
という感情はその主観性を取り除かれて、ある欠点を指摘する
ひとつの矛盾しない事実に蒸留されるはずです。
なぜなら、欠点のない人はいないから。



しかし、私はこの「欠点を指摘する事実」そのものがいかに論理
的で正当であっても、それを指摘すること自体がその人の批評の
スタンスとしてフェアであるとは考えません。
冒頭に言ったように、なぜその人のあら探しをしたのか・・・
「欠点をあげつらって指摘するか否か」という判断をする時点で
批評者の主観性は存分に発揮されているからです。
「いや、嫌いだから分析したわけじゃない」という反論がある
かもしれませんし、それが嘘でない場合もあるでしょうが、欠点を
あげつらうことがアンフェアな理由は「嫌いだから論理的に批判す
ることがある」からではなく、「好きだからあら探しをしない場合が
ある」からです。



論理的、客観的であるということは感情的、主観的であることより
上にある価値基準だと考えている人が多いようです。確かに、同じ
ように考えるように他人に説明する時などには、そのものさしの方
が説得力があるし、「それはお前だけの問題だろ」と言いくるめら
れる危険性がない。しかし、それはあくまで他人に共感してもらう
時に必要とされる正確性であって、自分の中にある本質を正しく見
極めるために適切な手段ではない。
「自分の感情を他人に理解して共感してもらう」ということに重きを
置くという仮定において適切であっても、その仮定自体は客観的な
重要性を持っているわけではありません。



少し話を戻して、「好きなもののあら探しはしない」ということに
ついて考えてみたいと思います。
私は人間ですから、人に対する評価を誤ることは多々ありますが、
「現時点で正しい批評をする」という能力はそれなりに備えている
つもりです。そして、誰かがポッと出てきたときに、それは知人でも
いいし、歌手やお笑い芸人でもいいのですが、「こいつはダメだ、
なぜなら」・・・という理由付けをすることができます。
そして、それは正しい。往々にして正しい。
しかし、数ヶ月、数年とその人を見て、自分の心の中にその人の場所が
出来たときに、その人に対して過去に行った批評が、今現在もその人の
欠点を指摘する事実として正しいものであるにも関わらず、全く無意味で
興ざめなもののような気がして、過去にそのような冷淡な批評を下した
自分が恥ずかしいような心持ちすらするのです。
こういった経験を幾度か繰り返して、私は人を評価するときに論理性、
それから好き嫌いのような主観性のどちらをより重視するべきかという
観点において、「後者の方が正確である」と考えざるを得なくなりました。
何故なら、欠点を含んだ誰かを好きになった場合、その人に欠点があり、
改善すべきであるという事実より、その人のことが好きだからつまらぬ
あら探しをすべきではないという気持ちのほうが自分にとってはるかに
大事であると、少なくとも自分の価値観においては言えるからです。



いつも醜い感情に苛まれている私は何かを嫌いだと言わない人たちが
羨ましくもありましたが、論理的に考えればものに欠点があるという
事実のほうが確かで、それに何か気に食わないものに対して沈黙を
守るほど心が強くなかったので自分がそういった器用なスタンスに
歩み寄ることはないだろうと考えていました。
しかし、突き詰めていけばこのように、客観的なアプローチ自体が
主観的な前提を含んでいるという矛盾に気付き、自分の価値基準の
中の優先度において論理性より感情そのものの方がはるかに信用で
きる正確なものであるという事実に直面しました。



以上のことから私は何か自分の嫌いなものや人について批判的に
言及することが、損得の問題ではなく著しくそれ自体が主張する
正確性に欠けるものであると考え、好きであるとか嫌いであると
いう感情の問題を論理の力を借りずにそのまま感情として表現す
ることの方が「客観性」を備えた方法であると結論付けます。
そして、知的判断のメタである愛の基準において、当人の改善を
願う気持ちゆえの辛辣さが当人に宛てて発揮される場合、批判を
受ける側は悪意ではなくその善意にスポットを当てて解釈する
方がより生産的であるということにも一応、触れておきます。