自分の願望を臆面もなく口にできるというのは人間が持ち得る最大の能力です。

自分の願望を臆面もなく口にできるというのは人間が持ち得る最大の能力です。
幸せになるということは、たとえばこういうことです。
幼稚園児の集団が遊んでいて、そこへ後から別の子どもがやってきます。
こんなに小さくても、ここで素直に「い〜れ〜て」と言える子と、「もしかして
入れてもらえないんじゃないか?」と逡巡する子、諦める子、誘ってもらうまで
気を引きたそうに近くで遊ぶ子がいる子に分かれるでしょう。
この根本的な違いが、全ての人間社会において死ぬまで続いて行くのです。


では、素直に「い〜れ〜て」が言える子と、言えない子の違いはなんなのでしょう。
「い〜れ〜て」が言えない子は、自分が「もしかしたら入れてもらえないかも
しれない」と恐怖し、そのために口をつぐんでいるものだから、素直に
「い〜れ〜て」が言える子は、絶対に入れてもらえる自信があって言っている
と思ってしまいます。人気のある子、ない子、好かれる子、嫌われる子という
のはもともと二つに分かれていて、自分は「入〜れ〜て」と言っても入れて
もらえない側の人間なのではないかという不安を抱いているのです。


しかし、ここに、「自信がある」、「勇気がある」ということに対する最も
大きな誤解が含まれているのです。
「自信がつく」というように、人が自信に満ちるのは何らかの根拠を手に入れ、
その根拠に基づいて「勝つ確信」を伴って行動できるようになるからだという
イメージがありますが、自信がつくというのは何かを手に入れることではなく
捨てることなのです。


さきほどの「い〜れ〜て」の話に戻りましょう。
「い〜れ〜て」が言えない子は、「もしかしたら自分は入れてもらえないんじゃないか?」
という不安にとらわれて、それゆえに自分の願望を口にできないでいます。
だから、願望を素直に口にできる者にはその資格があると思っています。
しかし実際は、どんな人でも素質だけではどうにもならないことがあるという
のが事実です。もし、「自分には入れてと言えばどんな集団にも入れてもらえる
生まれ持った資質がある」というのを自信の根拠にするなら、その自信は初めて
「お前なんか鼻につくから入れてあげない。」と言われた日に瓦解してしまいます。
自信に満ちた人は、そんなグラグラした根拠をもとに生きているのでしょうか?


自信をつけるというのは何かを手に入れることではなく捨てることだというのは、
このことを指しているのです。
もし手に入れた何かを自分の拠り所にしていたら、その何かを失った日に自信は
全て失われます。それは自信ではなくただの奢りでしょう。
では、ほんとうの自信は何なのかというと、自分など何者でもないという自覚です。
自分など何者でもないと分かっていれば、「い〜れ〜て」と言って拒否され、
「自分は何の努力をしなくても、入れてと言うだけでどの集団にも入れてもらえる
ような生まれ持った資質がある」という可能性が潰えても、まあそういうことも
あるだろうと納得できるはずです。
そして、拒否されたら誰でも傷つくのはしょうがないことですが、そうなった
ところで自分の価値が減るわけではないので、入れてくれる他の集団をあたるとか、
その集団に入れてもらえるように自分自身が変化するとか、試行錯誤することが
できるはずです。
つまり、「自信がある」というのは、失敗という結果があることを想定して、
そのうえで「自分は何者でもないので失敗したところで失うものなどない」
と覚悟を決めて何かに挑戦できることを言うのです。


自分の願望を臆面もなく口にできるというのは人間が持ち得る最大の能力です。
弱い人、戦う勇気がない人が何よりも先に捨てないといけないのは自分が本気
で戦って負けたときに何かを失ってしまうという恐怖です。
戦って負けたときに本当に何かを失うのは殺し合いだけでしょう。
勇気とは弱くても戦うこと、負けても自分に失望しないことです。
負けても敗因を研究し、繰り返し戦うことで人は強くなります。
だから負けにへこたれない人はどんどん強くなるのです。
強い人が勝つから戦うのではありません。
戦ったから強くなり、勝てるようになったのです。
勝つ自信があるから戦うのが勇気ではありません。
戦うと決めた人に宿るものが勇気なのです。

嫌いな理由を論理化するということ

私は何かを嫌いな理由を論理化するということを喜ばしく思
っていません。人が何かを嫌うのには理由があるし、それを
説明するのに論理的に矛盾せずに欠点を突くことはいつでも
容易だと考えています。
しかし、誰かを嫌いな理由が論理的であることは全てにおいて
フェアであるとは言えません。「人は普通好きなもののあら探し
をしないから」です。



何かを嫌いな人がよくその理由を論理化する理由は、それが
嫌いであるという「主観」を「これこれこういう理由だから
こいつは嫌われるべきである」という「客観」に置き換える
ためです。「主観」というアンフェアな意見に客観性を持た
せて、フェアな観点からもそれは嫌われて当然なものであると
証明することで、その嫌いな何かに対する否定に説得力を持た
せることができますし、自分が嫉妬だけを燃料に対象をこき下
ろしているという他人や自分自身から湧き出る疑念を取り払う
ことができます。
そして実際に、ほとんどの場合、最初の動機はどうあれ「嫌い」
という感情はその主観性を取り除かれて、ある欠点を指摘する
ひとつの矛盾しない事実に蒸留されるはずです。
なぜなら、欠点のない人はいないから。



しかし、私はこの「欠点を指摘する事実」そのものがいかに論理
的で正当であっても、それを指摘すること自体がその人の批評の
スタンスとしてフェアであるとは考えません。
冒頭に言ったように、なぜその人のあら探しをしたのか・・・
「欠点をあげつらって指摘するか否か」という判断をする時点で
批評者の主観性は存分に発揮されているからです。
「いや、嫌いだから分析したわけじゃない」という反論がある
かもしれませんし、それが嘘でない場合もあるでしょうが、欠点を
あげつらうことがアンフェアな理由は「嫌いだから論理的に批判す
ることがある」からではなく、「好きだからあら探しをしない場合が
ある」からです。



論理的、客観的であるということは感情的、主観的であることより
上にある価値基準だと考えている人が多いようです。確かに、同じ
ように考えるように他人に説明する時などには、そのものさしの方
が説得力があるし、「それはお前だけの問題だろ」と言いくるめら
れる危険性がない。しかし、それはあくまで他人に共感してもらう
時に必要とされる正確性であって、自分の中にある本質を正しく見
極めるために適切な手段ではない。
「自分の感情を他人に理解して共感してもらう」ということに重きを
置くという仮定において適切であっても、その仮定自体は客観的な
重要性を持っているわけではありません。



少し話を戻して、「好きなもののあら探しはしない」ということに
ついて考えてみたいと思います。
私は人間ですから、人に対する評価を誤ることは多々ありますが、
「現時点で正しい批評をする」という能力はそれなりに備えている
つもりです。そして、誰かがポッと出てきたときに、それは知人でも
いいし、歌手やお笑い芸人でもいいのですが、「こいつはダメだ、
なぜなら」・・・という理由付けをすることができます。
そして、それは正しい。往々にして正しい。
しかし、数ヶ月、数年とその人を見て、自分の心の中にその人の場所が
出来たときに、その人に対して過去に行った批評が、今現在もその人の
欠点を指摘する事実として正しいものであるにも関わらず、全く無意味で
興ざめなもののような気がして、過去にそのような冷淡な批評を下した
自分が恥ずかしいような心持ちすらするのです。
こういった経験を幾度か繰り返して、私は人を評価するときに論理性、
それから好き嫌いのような主観性のどちらをより重視するべきかという
観点において、「後者の方が正確である」と考えざるを得なくなりました。
何故なら、欠点を含んだ誰かを好きになった場合、その人に欠点があり、
改善すべきであるという事実より、その人のことが好きだからつまらぬ
あら探しをすべきではないという気持ちのほうが自分にとってはるかに
大事であると、少なくとも自分の価値観においては言えるからです。



いつも醜い感情に苛まれている私は何かを嫌いだと言わない人たちが
羨ましくもありましたが、論理的に考えればものに欠点があるという
事実のほうが確かで、それに何か気に食わないものに対して沈黙を
守るほど心が強くなかったので自分がそういった器用なスタンスに
歩み寄ることはないだろうと考えていました。
しかし、突き詰めていけばこのように、客観的なアプローチ自体が
主観的な前提を含んでいるという矛盾に気付き、自分の価値基準の
中の優先度において論理性より感情そのものの方がはるかに信用で
きる正確なものであるという事実に直面しました。



以上のことから私は何か自分の嫌いなものや人について批判的に
言及することが、損得の問題ではなく著しくそれ自体が主張する
正確性に欠けるものであると考え、好きであるとか嫌いであると
いう感情の問題を論理の力を借りずにそのまま感情として表現す
ることの方が「客観性」を備えた方法であると結論付けます。
そして、知的判断のメタである愛の基準において、当人の改善を
願う気持ちゆえの辛辣さが当人に宛てて発揮される場合、批判を
受ける側は悪意ではなくその善意にスポットを当てて解釈する
方がより生産的であるということにも一応、触れておきます。

奇跡を信じない人の種類

奇跡を信じない人の種類・・・
①奇跡を信じないほうがカッコイイと思っている痛い人。
②奇跡を信じて起きなかった場合に傷つくのを恐れる軟弱者。
③奇跡を信じないことによりその反対の「奇跡的不幸」が存在しないことを信じたい臆病者。
④自分に奇跡が起きないのは行動を起こさなかったからではなく奇跡が存在しないからだと信じたい怠け者。

小児科のラーメン

初めて入るラーメン屋で大盛りを頼むこと自体冒険なのかもしれない。
でも、僕はラーメンと名のつくもの多少道を踏み外していても
完食できる自信があった。
それくらいラーメンが好きだし、勝算もあった。
食べログでの高評価はもちろん、都会の一角にありながらボロボロの
佇まい、二畳ちょっとに換算されそうな狭さ、最後まで閉まらない
硝子戸。
それら全てが未知の美味へのいざないを予感させていた。
だから僕は、それほどお腹がすいていないにも関わらず大盛りを
頼んだのだ。
主人とその奥さんらしき人はいかにもカカア天下といった感じで、
ざっくばらんに話していて好感が持てる。
きっとこの二人が、ときには喧嘩をしながら、力を合わせて地道に守り
続けた味が認められ、このような都会のラーメン競争で生き残れるに
至ったに違いない。
そんなことを考えながら待っていると、主人が「あっ茹ですぎた」
と言った。
うんうん。
まあ、それは、茹ですぎたという字のままの事ではあるまい。
きっと長年ラーメンを作り続けた職人にしか分からない小数点
以下数秒の世界の話なのだろう。
そんなことは今どうでもいいのだ。
この夫婦が長年培ってきたラーメンのスープの歴史と比べたら、
麺の茹で加減の数秒など取るに足らない。
そんなことより僕がいま、僕の胃袋が欲しているラーメンと言う
名のスペクタクルで食欲という名のキャンバスを埋めてほしいのだ。
気にするな。
「ヘイ、お待ち」と言ったかどうかは定かではないが、僕は主人が
何か口から発しながらラーメンばちを置くや否や口の中に麺の
第一便を送り込んだ。
しかし、次の瞬間、僕の頭の中を驚くべき支配力を持って駆け巡った
言葉は「小児科」だった。
このラーメン小児科の味がする。
いや、そんなはずがない。
だって、ラーメンは食べ物だし、小児科は施設だし。
ラーメンはおいしいものだし、小児科は命を救う場所だし。
そんなはずがないよ、と念を押して僕は次の一口をすすった。
うん、小児科。
小児科の味するねこれ。
びっくりする。
何が小児科の味がするんだろう?
スープ?
ずずずっ
うん、小児科。
麺?
ぞぞぞっ
小児科。
チャーシュー?
小児科。
ネギ?コショー?
小児科小児科。
もはやその器の中は、ありとあらゆる小児科で埋めつくされていた。
そこに小児科以外の要素が入り込む余地は皆無だった。
一口食べるごとに、より強固になっていく、食べ物とはかけ離れた
子供を救う現場のイメージ。
鼻腔を突き抜けるたび「これは食べ物でない」と警告を発する
わが食欲中枢。
そして己の過ちを咎め、あざ笑うかのように立ちはだかる
大盛りの壁。
僕は主人の顔を見た。うらめしそうに。
ご主人、どうして言ってくれなかったの。
「大盛りはさすがに無理だよ」って。
「だってこれ、小児科の味するよ」って。
主人はそ知らぬ顔でワイドショーを見ていた。
ちくしょう、下手な美容師とまずいラーメン屋はどうして
そ知らぬ顔だけは上手なんだ。
僕はラーメンは残せない。
それだけは哲学に反する、というより気が弱すぎてできないのだ。
己の贖罪のため、僕は箸を進めた。
ずずずっ。
経鼻腔噴霧器。
ずずずっ。
せきどめシロップ。
ずず、ずず。
ちくのうのポスター。
記憶に埋もれたあらゆる小児科に関する情報を掘り返されたところで、
やっとラーメンは消滅した。
食べたのではない、ただ僕は耐えて、それは、なくなったのだ。
お腹の中に命の現場が展開しているなどということは考えたくも
なかった。
僕は何食わぬ顔で650円を払い、ごちそうさまを言って店を出た。
僕は決然としていた。
僕はこれから、この意味のない苦行を誰とも知らない人に繰り返
させないために、いち生還者として、あの恐怖を、あの惨禍を
食べログ>や<自分のブログ>に書き記し、末代まで語り継ぐ
使命を負っていたのだから。
僕はテーブルを求めて歩いた。
茶店、満員。
ファストフード、長蛇の列。
茶店その2、満席。
そうか、今日はクリスマスイヴなんだ。
街は浮かれたアホカップルでごったがえしていた。
僕は焦った。
歩けば歩くほど薄れていくあの味覚の記憶。
あの小児科の味を忘れないことがこんどは僕の使命になっていた。
どこかテーブルは、どこかテーブルは。
だめだ。駅のベンチくらいしかあいていない。
テーブルがないとタイピングできないのに。
僕は途方にくれた。
あの味を思い出すためにもう一度食べにいくなんて、絶対に、絶対に
あってはならないことだ。
人でごった返す街の中を、しょうにか、しょうにか、とつぶやきながら
一人の男が歩いていった。
メリークリスマス、この世界は腐っています。

「悩んでいる時間があったら歩を進めろ」という的外れなアドバイス

どの道を行くか悩んでいる人に向かって、自分の進むべき道すら把握していない人が
「悩むな、悩んでいる時間だけ無駄だ、そのぶん前へ進め」とアドバイスする。
まるで、悩んで無駄にしたわずかな時間でどこにも辿り着けなくなるような口ぶりで。
けれど、目的地を知らない人がどれだけ歩を進めたって、それが前進になっているのか
逆走しているのかも分からない。
だから、自分の目的地がどこであるのか考えているうちは、たとえ実際に足が動いて
いなくても、目的地に辿り着くために前進していると言える。
だけれど、目的地について考えたことのない人たちにはそれが理解できない。
彼らは、全ての人間には自力で行かなければならない目的地があって、それが人によって
ばらばらだということを知らない。
だから、人に言われた道を、人に教えられた道徳で、人に指示されたとおりに進む。
それが自分の進むべき道であるかどうかなど考えもしない。
彼らは、自分の足が動いている事実に満足しているので、進んでいる道が
正しいか間違っているかなど疑わない。
だから、歩を止めている人を見ると疑問に思い、口を出さずにはいられないのだ。


人の生きる道はヒントに満ちている。
その人の激変させるような啓示はいつだってそのへんに転がっている。
ただ、そのヒントは、私たちが他人に言われたとおりでなく、自力でものを考え、
心に思考を蓄積し、それが一定水準に達したときにやっと理解できるようになっている。
だから、何も考えずに歩き続けたって、ヒントはただの石ころであり続けるのだ。


自分の進むべき道を考えずに、ただ人に教えられた成功―社会的地位、富、名誉、
動物的な欲望など―に向けて前進し、人に教えられた道徳を守り、人に敷かれた
レールからはみ出さないように生きた人は死ぬ前に必ず同じことを後悔する。
つまり、そういう生き方をする人は自分が永遠に生きると思っていて、人の意見に
反駁することが自分にとって永遠の呪いになると考え、それゆえ推奨された価値観や
思想とそのルールに従って生きてきたので、ある日、もうすぐ死ぬことを言い渡されて、
自分の命が限りあるものを気付いた瞬間に、そういった呪いに対する煩悶や心労が
全く無意味だったと身をもって知らされるのだ。
そして、そうなった時に、自分の進んでいた方向がまったく目的地と逆だったと
気付いたとしても、もう取り返しがつかない。



だから僕は、もし誰かが悩んでいるときに「悩んでいる間に前進しろ」
と言われたら、その人に代わってこう反論したい。
あなたに前進しているように見えないのは、あなたの向いている方向が
前じゃないからではないですか?

賛成だけど反対です:東京都青少年健全育成条例について

東京都青少年健全育成条例が可決された。
「成立した改正条例では、子どもとの性行為や婦女暴行といった、法律に違反する
性行為などを不当に賛美・誇張したマンガなどを販売する際に、一般の棚ではなく、
成人コーナーなどに置くことが求められる」そうだ。
なるほどへえ、と思う。別にいいんじゃないかと思う。
石原都知事が「当たり前だ、てめーの子供に見せられるか」と言うように、
子供を持つ親なら、規制対象となる「近親相姦」だの「強姦」だののリスクから
少しでも遠ざけられるならそうしてほしい、と思うのが当然だろう。
もしそれに反対する人がいるのなら、下俗な出版物で利益を得ている出版社か、
強姦や近親相姦を肯定する危険人物なのではないかと勘ぐってもおかしくない。


しかし、先日、規制対象となり得る近親相姦に類する表現を含む手塚治虫
漫画「火の鳥」は規制対象になるのか、と訊かれた東京都副知事猪瀬直樹
とんでもない回答をよこした。


「されません。」
「出版社は傑作なら喜んで原稿を受け取る。条例なんて、そのつぎの話。
まずは傑作を書いてから心配すればよい。傑作であれば、条例なんてないも同然。」


要するに、「傑作であれば規制されない」ということだ。
それはつまり、「傑作であるか否か」という、表現物の価値を一介の役人の
判断で取り決めてしまうという事だ。これには驚いた。


そもそも、「表現の自由が守られている」ということは、「ルールが思想に干渉しない」
という最低限のラインが守られている状態だ。
例えば、殺人者を逮捕することはできても、「殺人を合法化すべき」という意見を
持っている人を逮捕して、そのようなことを考えないように洗脳することは許されない。
ルールと思想は別々に存在すべきものだからだ。
ルールのために思想があるのではなく、思想からルールが作られるのだから当然だ。
もし、ある作品について、ルールが「価値のあるものと考えてはならない」として
閲覧を制限するなら、それは戦争中に軍国主義を賛美しない内容の書き物を
墨で黒く塗ってしまったようなことと変わらない。
今回の場合は「18歳以下への閲覧制限」だから、まあ18歳を過ぎてから読めばいいじゃないか
と言う人もいるかもしれないが、若い頃にどのような本や思想に出会うかということが
人にとってどれほど重要であるかは誰もが知るところである筈だ。


本質的なことを言えばそういった大問題を孕んでいる条例だが、
実際に施行された場合、どのように審査されるのかも気になる。
たとえば現世に第二の手塚治虫が現れて「火の鳥」を描いた場合、
それが役人の手によって篩いにかけられることが無いと誰が保証するのだろうか。
元作家であるらしい(私は著作は読んだことがないが)猪瀬直樹は「傑作なら
条例などないに等しい」と言うが、毎日のように膨大な数の漫画を読んで、
あらゆる前例と比較したり、作者の方向性についてアドバイスできる立場の
人たちですら何が傑作であるかについて意見が割れるのに、どうして
役人が傑作でないと言うものは誰かに見せられないと断言できるのだろうか。
有体に言って猪瀬氏が火の鳥を「傑作」と言い切れるのは、それが(規制
されることなく)様々な老若男女、一般人から専門家に読まれて、良いものと
評価され、作者が漫画の神様と言われているバックグラウンドがあるからであって、
まったく予備知識なしに時代を切り裂くような傑作が出てきて、それが
10年、20年時代を先駆けるようなものであったときに「傑作である」
と判別する術など玄人ですら持ち合わせていないのだ。


恐らく東京都知事にしろ猪瀬氏にしろ、元作家と言う立場があるから
自分が創作に対して何にでも正しい評価が出来ると過信しているのだろう。
そして、小説家ならではというか、漫画やアニメが小説ほど重いテーマを
持ち得ないという幻想に囚われているのだと思う。
猪瀬氏の、「傑作で条例を飛び越えて来い!」などという寒気のする
元作家の自意識丸出しの叱咤激励は文学賞の選考会で言うべきことであって、
実際に敷かれるルールに傑作だとか駄作だとかいう主観的な問題を
持ち出してはいけないのだ。


ひとつ眉唾になるかもしれないが、こういう事実を表明しておきたい。
彼らはもう古い人間だ。
彼らの世代は、身の回りから不安要素や死や忌々しいものを除外するのに
躍起だった世代だ。
もし臭いものがあれば、それ自体に蓋をして、それを誰にも見せないように
することで、クリーンな人間が育つと本当に信じていたらしい。
しかし、人間が人間を傷つけたり反社会的な行動に走るのは、
なにか汚らわしいものを見てそれに触発されて起きるのではない。
人間の起こす行動の原動力は人間本来の性質と、それに与えられた「現実の」
環境に依存している。
もし性犯罪の表現を抹殺したとして性犯罪は減るだろうか。
人を殺す表現をなくしたら人は人を殺さなくなるだろうか。
そんなのは絵空事だ。表現がない時代から人は人を殺していたのだから。
これからの時代に必要なのは問題から目を背けることではない。
臭いものに蓋をしても無駄なことはもう十分に分かったはずだ。


体の表面のデキモノを躍起になって潰すより、政治家は社会的な
問題に対処することを優先しなければならない。

完璧なもの、歪んでいるもの

人間の幸福は絶対的なものです
相対的なものではありません
たとえば
あいつが100幸せで
おれは80幸せだから
おれはあいつより20不幸だ とか
そういう考え方はできないわけです
しかし
日本人はそう考えます
トール・ポピー・シンドロームという言葉があります
ポピーと言うのは植物のなまえです
他のより背の高いポピーを叩くという病質です
日本人はこの病質の塊のようなものです
ひとが幸福そうなとき
自分がその幸福に満たないと感じたとき
日本人は
自分が幸福になるよりも
そのひとが自分くらい不幸になることを願います
ネット上の掲示板を見てください
匿名と名のつくもの
どれも嫉妬、批判、罵倒で埋め尽くされています
これが日本人の本音です
人の幸福や功績
その作ったものに文句をつけることで
自分の心の安定を図っているのです
そうして非難のインフラばかり発達した状況で
作り手たちは
ずれないよう
歪まないよう
欠点がないだけのものを目指して
ものを作ります
結果として
同じようなものばかりが市場にあふれます
なんだかつまらないなあ、と誰もが思っています
でも、他人を妬むことをやめられないのです
そんなわたしたちも
ときに人の作ったものに心を打たれることがあります
それは完璧なものではなくて
ゆがんでいて
ずれていて
曲がっていて
曲がったまま伸びてしまったために
とんでもなくいびつな形に育ってしまって
それでもわけがわからないくらい純粋に
光っているものです
そういうものを作る人は
誰の忠告も聞かずに
自分のやりたいように作ったのです
そしてそれを見る私たちは
いつも人の言うことに流されて
周りにあわせて妥協して
同調しないものを排除して
排除されたものから優越感を味わって
というような醜い自己防衛のために
多くの個性を殺してきた負い目に
まっこうからその光を当てられるので
あまりに情けなくて申し訳なくて
涙を流します
いまの時代、ひとの心を打つのはそういうものです
誰かに言われて形をなおしたものや
完璧にするように歪みをなおしたものではありません
誰の忠告も聞かずに作られたものなのです