賛成だけど反対です:東京都青少年健全育成条例について

東京都青少年健全育成条例が可決された。
「成立した改正条例では、子どもとの性行為や婦女暴行といった、法律に違反する
性行為などを不当に賛美・誇張したマンガなどを販売する際に、一般の棚ではなく、
成人コーナーなどに置くことが求められる」そうだ。
なるほどへえ、と思う。別にいいんじゃないかと思う。
石原都知事が「当たり前だ、てめーの子供に見せられるか」と言うように、
子供を持つ親なら、規制対象となる「近親相姦」だの「強姦」だののリスクから
少しでも遠ざけられるならそうしてほしい、と思うのが当然だろう。
もしそれに反対する人がいるのなら、下俗な出版物で利益を得ている出版社か、
強姦や近親相姦を肯定する危険人物なのではないかと勘ぐってもおかしくない。


しかし、先日、規制対象となり得る近親相姦に類する表現を含む手塚治虫
漫画「火の鳥」は規制対象になるのか、と訊かれた東京都副知事猪瀬直樹
とんでもない回答をよこした。


「されません。」
「出版社は傑作なら喜んで原稿を受け取る。条例なんて、そのつぎの話。
まずは傑作を書いてから心配すればよい。傑作であれば、条例なんてないも同然。」


要するに、「傑作であれば規制されない」ということだ。
それはつまり、「傑作であるか否か」という、表現物の価値を一介の役人の
判断で取り決めてしまうという事だ。これには驚いた。


そもそも、「表現の自由が守られている」ということは、「ルールが思想に干渉しない」
という最低限のラインが守られている状態だ。
例えば、殺人者を逮捕することはできても、「殺人を合法化すべき」という意見を
持っている人を逮捕して、そのようなことを考えないように洗脳することは許されない。
ルールと思想は別々に存在すべきものだからだ。
ルールのために思想があるのではなく、思想からルールが作られるのだから当然だ。
もし、ある作品について、ルールが「価値のあるものと考えてはならない」として
閲覧を制限するなら、それは戦争中に軍国主義を賛美しない内容の書き物を
墨で黒く塗ってしまったようなことと変わらない。
今回の場合は「18歳以下への閲覧制限」だから、まあ18歳を過ぎてから読めばいいじゃないか
と言う人もいるかもしれないが、若い頃にどのような本や思想に出会うかということが
人にとってどれほど重要であるかは誰もが知るところである筈だ。


本質的なことを言えばそういった大問題を孕んでいる条例だが、
実際に施行された場合、どのように審査されるのかも気になる。
たとえば現世に第二の手塚治虫が現れて「火の鳥」を描いた場合、
それが役人の手によって篩いにかけられることが無いと誰が保証するのだろうか。
元作家であるらしい(私は著作は読んだことがないが)猪瀬直樹は「傑作なら
条例などないに等しい」と言うが、毎日のように膨大な数の漫画を読んで、
あらゆる前例と比較したり、作者の方向性についてアドバイスできる立場の
人たちですら何が傑作であるかについて意見が割れるのに、どうして
役人が傑作でないと言うものは誰かに見せられないと断言できるのだろうか。
有体に言って猪瀬氏が火の鳥を「傑作」と言い切れるのは、それが(規制
されることなく)様々な老若男女、一般人から専門家に読まれて、良いものと
評価され、作者が漫画の神様と言われているバックグラウンドがあるからであって、
まったく予備知識なしに時代を切り裂くような傑作が出てきて、それが
10年、20年時代を先駆けるようなものであったときに「傑作である」
と判別する術など玄人ですら持ち合わせていないのだ。


恐らく東京都知事にしろ猪瀬氏にしろ、元作家と言う立場があるから
自分が創作に対して何にでも正しい評価が出来ると過信しているのだろう。
そして、小説家ならではというか、漫画やアニメが小説ほど重いテーマを
持ち得ないという幻想に囚われているのだと思う。
猪瀬氏の、「傑作で条例を飛び越えて来い!」などという寒気のする
元作家の自意識丸出しの叱咤激励は文学賞の選考会で言うべきことであって、
実際に敷かれるルールに傑作だとか駄作だとかいう主観的な問題を
持ち出してはいけないのだ。


ひとつ眉唾になるかもしれないが、こういう事実を表明しておきたい。
彼らはもう古い人間だ。
彼らの世代は、身の回りから不安要素や死や忌々しいものを除外するのに
躍起だった世代だ。
もし臭いものがあれば、それ自体に蓋をして、それを誰にも見せないように
することで、クリーンな人間が育つと本当に信じていたらしい。
しかし、人間が人間を傷つけたり反社会的な行動に走るのは、
なにか汚らわしいものを見てそれに触発されて起きるのではない。
人間の起こす行動の原動力は人間本来の性質と、それに与えられた「現実の」
環境に依存している。
もし性犯罪の表現を抹殺したとして性犯罪は減るだろうか。
人を殺す表現をなくしたら人は人を殺さなくなるだろうか。
そんなのは絵空事だ。表現がない時代から人は人を殺していたのだから。
これからの時代に必要なのは問題から目を背けることではない。
臭いものに蓋をしても無駄なことはもう十分に分かったはずだ。


体の表面のデキモノを躍起になって潰すより、政治家は社会的な
問題に対処することを優先しなければならない。