売れてるものが良い物だとしたら、

11月、イギリスのシングルチャートに、two minutes silenceという曲がランクインした。
「退役軍人や現役兵士の家族をサポートする団体がチャリティーのために発売した(中略)、ヒットチャートで
1位にしようという呼びかけに応じるかたちで多くの人達が購入(TBSニュースより抜粋)」したそうだ。
ネット上等での呼びかけに加えて、この趣旨に賛同したミュージシャン、俳優、スポーツ選手、首相などが
それぞれ無言でプロモーションビデオに登場。
しかし、最終的に1位になることはなく、売り上げ枚数は20位ぐらいの間にとどまったらしい。
別にいい。利益ではなく寄付目的で企画を起こした人たちも、その曲を買う人たちも立派だと思う。
でも、何か釈然としないものがある。
自分の中にはどうしてもこの曲が1位になってほしいと素直に願えない気持ちがある。


ヒットチャート、つまり売れた枚数というものは曲の価値を示すものではない。
だいたい、曲の価値などというものは人によって基準が違うのだから定量化なんて
できるものではない。
ただ、それをいい曲だと思った人がたくさん居て、たくさんの人が買ったという事実が
あるとき、そんならその曲には一聴の価値があるかもしれないというふうに個々が参考にする
判断材料の一つとしてそういう数字が出されてもいい、という考え方がヒットチャートの
存在意義として残っている。
だから、別に売れる曲ほどいい曲だということはない。むしろひどいものだと思う。
広告商戦の応酬みたいに感じることもある。
ただ、曲を作る人たちや、聴く私たちにとっての理想は、あくまでいい曲がたくさん売れて、
それなりの曲はそれなりに売れて、チャートと曲の価値が合致していくことなのだ。
そういう理想を抱えて、ミュージシャンは時に大衆に媚びたり、または注目されないことに
いじけたりしながら曲を送り出していく。


でも、今回のチャリティのCDはどうだろうか。
これは2分間の沈黙、ただの無音であり、創作物としての価値は持たない。
むしろ沈黙という手段は芸術性に対するアンチテーゼと取れる。
曲が良いとか悪いとか、そういう価値基準は度外視して、今回のこの活動は
美しい慈善のために行われるのだから人の心を持つものはこれに賛同せよということだ。
この曲が1位になったらそこには「見てください、人の善意は曲の価値を凌駕するんですよ」という
作為的な感動の押し付けや解釈が生まれることが目に見えている。
それは、ただいい音を作って、それがたくさんの人に聴かれることを願って送り出している
他の創作者に対する冒涜にはならないのだろうか。
いちばんいい曲を作った誰かが、音楽とは関係のない、音楽に対してなんの必然性も持たないものが
同じ土俵に上がってきて、それに一位を奪われて二位になってしまったら、それは音楽チャートというものの
根本的な存在意義を侵しているように思える。


ただ、自分はこの活動がなければよかったとか目くじらを立てているわけではなくて、依然として
活動そのものの意図と行動を起こしたという事実については素晴らしいと思う。
でも、何か他にやり方はなかったのだろうか、と感じてしまう。
一応、2分間というのには戦没者に対する瞑目という大義名分があるのだが、せめて
曲を作るくらいの事はできなかったのか。
(無音の曲というアイデアには「4分33秒」という前例があるし。)


でも・・・たとえば誰かが戦争被害者のための歌を作って歌って、その利益を
彼らやその家族に贈るとする。
そんなに素晴らしい目的で歌を作ったとしても、もし曲そのものの完成度が
チャート600位程度のものならば、その曲は600位になるべきなのだ。
その人を助けるためには別の手段もあるし、社会上の問題を芸術という土俵に持ち込んで
芸術的な価値と人間の善意や善人であることへの強迫観念をごっちゃにしてしまうのは
ある種の品格に欠けていると思う。


「いいことだとは思うけど、それとこれとは別でしょう。」と思うことがたくさんある。
たとえば、末期癌の売れないミュージシャンが作った曲が突如としてメディアに注目される。
彼は同情され、曲に対してのハードルは一気に下がる。
でも、才能のない人が死の淵で作った曲が例に漏れずたいして評価できるものではなかったとき、
その曲は売れなくてもいいと思う。
善男善女を38人殺した凶悪犯が美しい詩を書いた。小説でもいい。
それに対して、「でも人殺しの作ったものなんだから芸術的価値はないよ」という注釈は必要ない。
それとこれとは別。
別だし、あくまでバックグラウンドと創作物の価値を切り離して評価することが出来るように
なったうえで、はじめてものを評価すること、そして評価そのもののある意味が生まれる。


・・・すこし話はずれてしまうかもしれないが、自分のこういった考えに対して、「ヒットチャートと
いうものはあくまで売れた数字であって、それに対する解釈は人の数だけあって良いだろう」
という反論が来ることを想定する。
そう言われるに決まっている、だって、現代の日本人はそういうふうに教育されているから。
「みんなちがってみんながいい」とか、「みんな正しいし、誰も自分の意見を侵されない権利がある」とか。
いやいや、いつ自分が誰かの意見を侵しただろうか。
自分は自分の意見を発表しただけだし、それによって誰かが強制的に意見を変えざるを
得なくなることなどあり得ない。
環境や境遇によって人の意見が食い違うことなど明白だが、昔から人たちは話し合ってきた。
そうして意見が分かれた原因を探り、お互いの納得のいく関わり方を話し合っていくことは
人類に与えられた至上命題なのだ。
どうも最近は「人それぞれ」とか「意見が違うままであって良い」とか言っておけば大人、
みたいな風潮が強すぎる。
多くの人の価値基準が異なることは当然だが、そんな理由は話し合いを放棄して思考停止する
言い訳にはならないし、多数決がまかり通る世の中に生きている以上、自分の意見がある人は
「無視されているけど存在そのものは否定されていない」というだけで満足するわけにはいかない。
意見が食い違う理由が相手の思考が足りないだけだとか、自分の立場でしかものを考えていないと
自覚できていないからだという場合、話し合いで議論が進展する可能性もあるのだから、コンセンサスを
得ることをあきらめてはいけないし、あきらめることを推奨するような風潮を許してもいけないと思う。
人が自分の置かれた立場でだけ物を言うとき、あるいは世間体に流されて誰かを批判するとき、その意見は
護られるべき人間の個性や独自性に基づいたものとは正反対の、むしろそれを侵害するものでしかない。
なぜなら、それは独自の意見ではなくて、意見を画一化させようとする何者かの意図や、社会規範、状況に
よって陥りやすい安易な誤解へ向かうレールにまんまと載せられているだけだから。